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第四話 覚えているに決まってる

مؤلف: 海野雫
last update تاريخ النشر: 2026-05-04 19:07:27

 自宅のマンションに帰り着くなり、朔也は玄関でへたり込んだ。

 やばい。

 十年間ずっと会いたいと思い続けてきた相手と、よりによってこんなかたちで再会した。スーツに皺がついたまま、玄関のたたきにうずくまっている自分を、どこか他人ごとのように朔也は感じていた。

 うれしすぎて、高校時代の自分にすぐ戻りそうになる。けれど、自分から距離をとっておきながら今さら「久しぶり」とは言えなかった。十年前、自分の側で線を引いたのだ。引いた線を、今になって自分から踏み越える権利は、たぶん、もう、ない。

 駅のホームのベンチで酔いつぶれていたら、声をかけられた。懐かしい声だと気づいたときには、目はもう半分ほど開いていた。焦点が合った瞬間、紡の顔がそこにあった。幻覚を見ているのかと思った。徐々に輪郭が鮮明になっていって、本物の紡だと確信した瞬間、朔也の酔いは音を立てて飛んだ。

 それでも、朔也は酔いつぶれたふりを続けた。

 しらふで対応したら、自分がどんな顔をしてしまうか、わからなかった。十年もずっと片想いを引きずっている、なんて、痛すぎる。痛さを紡に見せたくなかった。

 あふれそうになるものを抑えるためにシャワーを浴びた。湯を頭から被っても、熱は引かなかった。無理やりベッドに横になり、目を閉じた。覚めたつもりでもアルコールは残っていたのか、意識はあっという間に遠のいた。

 翌朝、目を覚ました瞬間、知らない天井がそこにあった。

 いや、自分の部屋の天井だ。それなのに、なぜ「知らない」と感じたのか、すぐにはわからなかった。

 鼻の奥に、かすかな柑橘の香りが残っている気がした。誰かの肩にもたれかかった感触。耳のすぐそばにあった他人の息遣い。

 あれは、やっぱり夢だったのだろうか。

 好きでたまらなかった相手だった。

 あまりにも近くにいすぎた。だから、いつ気持ちがあふれだしてもおかしくなかった。あふれだした瞬間に、あの関係は終わる。確信に近い予感だけが、十年前の朔也のなかで先に育っていた。壊れるくらいなら、なにも言わないほうがいい。それが朔也のたどり着いた結論だった。

 高校卒業と同時に、朔也は家族でアメリカに渡った。父の関連会社への出向に合わせて一家で引っ越すことになったのだ。当初、朔也は日本の大学に進むつもりだった。家族だけ先に渡米する案も考えた。けれど、紡のそばにいたら、いずれ自分はあの関係を壊す。そう確信していた。だから思い切って父について行き、向こうの大学へ進学することにした。

 太平洋を挟めば物理的に手は届かない。手が届かない場所まで自分を引きずっていけば、想いは少しずつ薄れる。そう信じたかった。

 日本を離れる前に、朔也は携帯番号をアメリカのものに切り替え、高校時代の連絡先を一掃した。当時使っていたSNSのアカウントもすべて削除した。

 忘れたくて、仕方がなかった。

 好きで好きで、しょうがなかったから。

 太平洋の向こうで朔也は四年を過ごした。大学のキャンパスにも、寮の部屋にも、紡の影は届かなかったはずだった。「届かなかったはずだ」と過去形で言える日は、結局一日も来なかった。卒業後、現地で就職する道もあった。けれど朔也には、日本に帰ってきたい理由が、はっきりとひとつあった。理由の正体は、自分でも、いまだに整理しきれていない。整理しきれないまま、朔也は飛行機に乗った。

 帰国して広告代理店に就職してから、朔也は実名のアカウントをひとつだけ作った。仕事の名刺がわりに、と人には説明している。説明しながら、それが半分は嘘であることを朔也は知っていた。日々の写真を、当たり障りのないかたちで投稿していた。誰に向けて、というつもりはなかった。少なくとも、そういうことにしていた。

 いつか、誰か、見つけてくれるかもしれない。その「誰か」の名前を、朔也は口にも心のなかにも、決して書きださなかった。書きださなければ、それは、ただの仕事用アカウントのままでいられた。

 ベッドから起き上がり、朔也はスーツの胸ポケットに手を入れた。

 カサ、と紙が小さな音を立てた。

 そっと引きだして、広げた。

 丁寧な字で、電話番号と「白瀬紡」と書かれていた。

 ――夢じゃ、なかった。

 紡の名前を、朔也は指の腹でそっとなぞった。鼻の奥に、また、柑橘の香りが広がった気がした。

「有馬……だよね?」

 昨夜の声が、耳の奥でもう一度、鳴った。

 昔は「朔也」と名前で呼んでいた声だった。十年前、駅前で「じゃあな」と手を振った日からずっと、紡が朔也をなんと呼んでいたのか、朔也は知らないでいた。

 もう、そういう関係じゃない。

 当然だ。距離を作ったのは自分自身なのだ。覚えていてくれただけで、ありがたいと思わなければならなかった。

 朔也は寝室を出て、洗面台で冷水を顔に当てた。二日酔いの頭が、こめかみのあたりで鈍く脈打っている。親指で押しても痛みは引かない。鏡のなかの自分の顔が、思っていたよりひどい顔をしていた。

 通勤電車のなかで、朔也はスマホに短い文章を打ち込んだ。

『昨夜はご迷惑をおかけしました。有馬』

 送信ボタンの上を指が行ったり来たりしている。送っていい立場かどうか、朔也には判断がつかなかった。送らないのも、もらった連絡先への礼を欠く。紡に対して失礼にあたる。

 会社の最寄駅のアナウンスが流れた。

 朔也は結局、送信できないままスマホをバッグに押し込んだ。

 会社に着いて、朔也はビルを見上げた。

 雲ひとつない秋の空が、ビルの窓に映りこんで光っていた。気合を入れるつもりで息をひとつ吐き、自動ドアをくぐった。

 自席につくと、こめかみが鈍く痛んだ。給湯室で紙コップに水を注ぎ、一息に飲み干して、もう一杯注ぎ直す。

 そこへ同僚の篠原浩輔が入ってきた。

「おはよう、有馬」

「……うす」

「その顔、二日酔いだろ」

「うるせえ」

 篠原はからかうような口調で訊いてきた。

「で、昨日はどこで潰れてた」

「覚えてない」

「ほんとかよ」

 篠原は目を細め、片眉をわずかに跳ね上げた。なにかを察したようだった。それでも深追いはしてこない。

「まあ、ちゃんと生きてたならいいさ」

 篠原は朔也の肩を軽く叩いて、コーヒーマシーンへ向かった。朔也は短く息を吐いて、給湯室を後にした。

 二日酔いでも仕事は容赦なくやってくる。

 午前は定例会議だった。頭痛で内容はあまり入ってこなかったが、自分に関わる箇所はメモを取り、必要な発言もした。普段の自分の動き方で、勝手に体が動いてくれているのが、皮肉だった。アメリカで身につけた対人スキルは、こういうとき、ロボットのようによく働く。

 会議を終えて自席へ戻る前に、朔也は社内の案件ボードに目を通した。新規コンペの告知、既存案件の進行状況、人員配置。普段の朔也は、新規案件に自分から手を挙げるタイプではない。人手不足のときや、自分のスキルが活きる場面にだけ、必要に応じて参加する。今日もそのつもりで、ボードを眺めた。

 目が、一点で止まった。

 トキワ文具。

 紡の勤め先だった。

 新ブランド「blanc」のコンペ。参加五社。オリエンは来週の月曜。

 朔也は、ごくりと唾を飲み込んだ。

 その足で、課長の席へ向かった。会議から戻ったばかりの課長が、ノートパソコンを開きかけていた。手のひらに汗がにじんでいる。拳を握り直して、息を整えた。

 ここで動かなければ、また十年、たぶん、同じ後悔を繰り返す。十年前、ホームで紡の背中を見送ったときと同じ顔で、また紡を見送ることになる。それだけは、避けたかった。避けたいと思っているのに、自分で自分を許してしまっているような気がした。朔也はその感情に、うっすら罪悪感も抱いた。

「課長」

 声がわずかにうわずった。

「おう、有馬。どうした」

「あの」

 一度言葉を切って、もう一度息を整える。胸が空気を吸っているのに、吸えていないような感覚があった。

「トキワ文具の案件、私に任せていただけませんか」

「有馬が?」

 課長は眉を跳ね上げた。意外そうな顔だった。当然だ。朔也が新規案件に自分から立候補するのは、入社してから初めてだった。

「お前がやる気だすのは珍しいな」

「はい」

 表情は崩さずに返した。崩したら、別の感情まで一緒に出てしまいそうだった。

 課長は朔也をしばらく見つめてから、ふと表情を和らげた。

「どうしてもやりたい、って顔してるな。わかった。オリエン、出てこい」

「ありがとうございます」

「がんばれよ」

 頭を下げて自席へ戻る。椅子に腰を下ろした瞬間、知らないうちに張り詰めていた肩が、ようやく一段、下がった。

 もう少しだけ近くにいたい。

 半年でも、一年でも、仕事の枠内ででも構わない。ただの取引先でいい。それ以上は望まない。そう自分に言い聞かせれば、朔也はとりあえず前に進める気がした。

 言い聞かせた瞬間、それが嘘だと自分でわかってしまった。

 それ以上を望まないなんて、嘘だ。

 本当は、十年前のあの夕焼けの下校路を、もう一度、紡の隣で歩きたい。けれど、それを望む権利は、もう自分にはない。十年前にその権利を返したのは、自分自身だった。

 オリエンに紡が出てくるとは限らない。けれど、ゼロではない。

 朔也はスマホを取り出した。画面には、朝送れずにいた『昨夜はご迷惑をおかけしました。有馬』という下書きが、そのまま残っていた。

 送らなかったら、紡は朔也が連絡先を読んだのかどうかさえ知らないままになる。読んで、捨てた、と受け取られるかもしれない。十年前と同じだ。十年前、自分は黙って番号を変え、SNSを消し、紡の前から消えた。同じことを、もう一度やるわけにはいかない。

 今度は、迷わなかった。

 送信ボタンを押した。

 ちょうど昼休みの時間だった。紡がこの一文を、どんな顔で受け取るのか。朔也には知る術がなかった。それでも、押した。押したことだけは、自分にも、たしかなことだった。

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  • 偶然を装って   第五話 新ブランド、という響き

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  • 偶然を装って   第三話 翌日のメッセージ

     予想通り、眠れなかった。 十年間、会いたいと思いつづけてきた人が、ついさっきまで自分の肩で眠っていた。その光景が頭のなかで何度も繰り返し再生され、紡はベッドのなかで瞼を閉じることもできないまま朝を迎えた。 胸のポケットに押し込んだメモを、有馬がいつ広げるのか。広げたとして、なにを思うのか。捨てるのか。捨てるとしたら、玄関のごみ箱なのか。それとも、駅の改札脇なのか。考えはじめるとどこまでも枝分かれしていって、それを一本ずつたどるうちに窓の外が白みはじめていた。 身支度を整えても頭はぼうっとして、体が重い。食欲もなく、ブラックコーヒーを一杯だけ飲んで家を出た。 電車のなかでは、吊り革に寄りかかるようにして揺られていた。立っているだけで体が斜めにかしぐ。隣の乗客にちらりと見られて、紡は慌てて姿勢を直した。 会社に着いても、ゆっくりしている暇はなかった。新規ブランドの立ち上げが目前で、社内全体がじわじわと忙しくなりはじめている。寝不足だろうが疲れていようが、仕事は待ってくれない。 紡はブラックコーヒーをマグカップで三杯、立て続けに胃へ流しこんだ。空腹の胃にコーヒーがしみて、奥のほうがキリッと痛む。それでも頭はずんと重いままだった。 こめかみを人差し指の第二関節で押しながら、営業資料に目を落とす。文字は確かに並んでいる。読めない。視線が上に滑って、また同じ行に戻る。 ――忙しいんだから、しっかりしろよ。 自分に言い聞かせても瞼は勝手に落ちてくる。 だめだ。今日は、進む気がしない。 紡はマグカップを手に給湯室へ向かった。四杯目のコーヒーを淹れに行きながら、紡は十年ぶりに肩で感じた重さを、まだ自分が覚えていると気づいてしまった。 ようやく昼休みになり、社員食堂へ向かった。 午前中は、会社員になってからいちばん長く感じた時間だった。集中できないと、時間というのはこんなにも進まないものなのかと、初めて知った。 日替わりランチをトレイに乗せ、空いているテーブルに腰を下ろす。アジフライにひじきの煮物、味噌汁、ご飯。揚げたてのアジに箸を入れると、衣がさくっと音を立てた。口に運ぶと、ふっくらとした身が舌の上でほどけていく。「うまっ」 小さく呟いたそのとき、スマホが震えた。 茶碗をトレイに戻し、画面に目を落とす。知らない番号からのショートメッセージだった。

  • 偶然を装って   第二話 十年前の夕焼け

     終電が去ったあとのホームは、急に音がなくなった。 紡は、ベンチの前にしゃがんだままで、しばらく動けなかった。有馬の目は、紡を見ているのか見ていないのか判別がつかなかった。ただ、目だけは開いていた。 駅員の足音が、ホームの向こうから近づいてきた。「お客さん、大丈夫ですか」 近くで聞こえた声に、紡はようやく我に返った。膝を伸ばして立ち上がる。「すみません、大丈夫です。すぐ出ますので」 駅員は、軽く頷いて、別のホームへ歩いていった。紡は、もう一度、有馬に向き直った。「有馬、立てる?」 返事は、母音だけのような、よくわからない呟きだった。それでも紡の声に応えるように、有馬はゆっくり立ち上がった。立った瞬間、足元が大きくぶれて、紡はとっさに腕を伸ばした。 有馬の体が、紡の腕の中に倒れ込んでくる。 息が止まった。「……お前、相当、酔ってるな」 返事はなかった。 紡は有馬の右腕を自分の肩に回し、もう片方の腕を有馬の腰に添えた。半身で抱えるかたちで、ホームを歩きはじめた。一歩、踏みだしただけで、想像していたよりずっと重たい体重が、紡の肩にのしかかった。記憶のなかの、リュックを揺らして歩く高校生の体ではなかった。当然のはずなのに、その当然が、紡には、どこか不思議に感じられた。 肩越しに、整髪料の柑橘の匂いと、わずかな酒の匂いが交じる。十年前、紡が知っていた匂いとは、別の匂いだった。「家、どこ?」 肩を支え直しながら、訊いた。「……えき、の……」 呂律の回らない口で、有馬は、町名を呟いた。聞き取れたのは、都心からは少し離れた地名だった。終電は、もう、行ってしまっている。「タクシーで送るから、しっかりしろよ」 返事のかわりに、紡の肩で、有馬が小さく頷いた気配があった。 なんで、こんなになるまで飲むんだ。 心配と苛立ちのちょうど真ん中のような感情が、ふと

  • 偶然を装って   第一話 終電のベンチ

     水曜日の夜、二十三時四十分。 白瀬紡は駅のホームの端で、電光掲示板を見上げていた。終電まで、あと三本残っている。残業明けの目の奥が、じんと重い。十月の上旬の夜気は、思っていたより冷たくて、スーツの隙間からするりと滑り込んでくる。コートにはまだ少し早い季節だった。「……今日は終電じゃないだけ、ましか」 吐き出した息が、白く空気に溶けた。誰にともなく呟いた声を、自分の耳で確かめるように聞く。明日もどうせ残業の予定だ。この疲労がそのまま明日に持ち越されることは、もうわかっていた。新ブランドの立ち上げが秋から本格化する、という話が部内に下りてきてから、紡のデスクには毎日、判断待ちの書類が積み上がっていく。会社を出るころには、もう、二十三時を回っていた。 ポケットから指先をだして、目頭を軽く揉んだ。少しだけ、楽になった気がした。 乗り換え案内のアナウンスが、ホームに流れる。同じトーンで繰り返される録音音声のあいだに、駅員の生のアナウンスが混じる。終電が近い時間の駅は、いつも、こんな空気をしている。明るすぎる蛍光灯と、薄く酒の匂いが漂う構内と、誰もどこかへ帰りたがっている顔ばかりが並ぶホーム。 ふと、紡は自分の立っているこの駅が、自宅にも会社にも近くないことを、もう一度、意識した。乗り換えのために降りた駅だ、ということにしている。一年ほど前から、紡はときどき、わざわざこの界隈で電車を降りるようになった。理由は、自分でも、ちゃんと言葉にしていない。言葉にしたら、ばかみたいだから。 ただ、何度かこの駅を歩いてみても、なにかが起きるわけではなかった。当然のように、なにも起きないまま、紡は何度も、別の路線に乗り換えて家に帰った。それでも、月に一度か二度、紡はこの駅に降りた。降りたあと、改札を出るでもなく、ホームのベンチに座って、しばらく電車を見送ってから、また別の電車に乗り直すこともあった。自分が、なにを期待してここで降りているのか、確認しないようにしてきた。確認したら、そのときに、自分の行動の意味が、急に、こわい色に変わる気がした。 考えはじめたら止まらなくなる気がして、紡は浅く息を吸って、考えるのをやめ

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